2006年05月07日

華散りぬ(躍動の章)

躍動の章

 杉田静代の左頬は少し腫れていた。
患者を呼ぶ声も聞き取りにくい。「変わりましょうか」真田依子が声をかけた。
顎を上に上げながら「大丈夫です」と歯を食いしばりながら答えた。
「真田さん今日は如何した事かしら、いやに優しいのね」と言いながらリハビリ室に消えていった。
CTスキャンの患者が一人、藤村さんどうぞ。真田依子がドァを半分開けて呼んだ。
藤村太郎、五十六歳、一瞬スキャンのドームに頭が入らないのでは、と依子の脳裏を横切った。
仰向けに寝てください。

 藤村太郎も大丈夫か心配しているのが伝わってきた。
「ハイ、そのまま動かないで下さい」依子はゆっくり、ゆっくり動かしてドーム入り口で一旦止めた。
「確認、OK」普段は行わないしぐさを、何時も行っているかのように実践した。
CTスキャンは普段より少し時間を要したが無事終了した。
「藤村さん、お酒の量控えてね。血圧も168と高いのだから」依子は藤村太郎に言った。
「それがなかなか」額に手をやりながら藤村太郎が答えた。
結果は来週の火曜日に出ます。それ以降に来てください。
藤村太郎はありがとうと言って部屋から出て行った。
奥のドァが開き「大丈夫だった」と院長が聞いた。
依子はニコッと笑った。

 院長は最近落ち込んでいた依子の事を心配していたがこれで大丈夫と確信した。
「院長、もう患者もいないので終わりにします。」杉田静代が左頬に手をやりながら院長に言った。
我慢も限界に来たのだろう。
「杉田君、君の歯痛が直ったら皆で快気祝いだ」院長はいつものボソボソ声で言った。
「アラ、もう直ったみたい」と杉田静代が言いながら帰宅した。

 笹山クリニックは十一時を過ぎると患者数は極端に少なくなる。
リハビリ部隊が居なくなるからだ。
真田依子が時計を見る回数が多くなった。
「今日の診察は終了しました」と書いた札を持って吉村秀子が「真田さん、今日はお出かけ」嫌味とも取れる言葉で話し掛けてきた。
吉村秀子と杉田静代はレズでは、との噂が出るぐらい何時も一緒だから、当然真田依子と北村譲二のことも知っている筈だ。
「映画でも行こうかな」依子は吉村秀子の後ろから言った。
「これ以上書いたら笹山クリニックの統制が乱れるので省略する」

 北村は居ないのかー、青葉医大一の嫌われ者、事務部長の大渡大作の大きな声が響き渡った。
北村は聞えない振りしてラックの裏で仕事をしていた。
ブリズンハウスに居るだけで、悪魔に洗脳されるのに、事務部長の声が四方の壁で共振により負帰還され増幅する。
それでも北村は居留守を使った。
北村のブリズンハウス行き命じた張本人だから顔も見たくない、当たり前である。
大渡大作は酒癖が悪いので、彼から誘われても皆用事を作り避けるのが、この病院の慣わしである。
そもそも大渡大作は、酒、タバコ、ましてギャンブルなど興味なしの伝書鳩亭主だったのが、女房の浮気が原因で離縁してから変貌したのだ。
人間は本当に弱い動物だ。そして残酷だ。
北村は依子の亭主のことを考えていた。二人の出来事を知ったのか、知ったのならば大渡大作のようにならなかったのか。
北村は自分の胸に蔓延る悪魔を垣間見ると同時に依子の顔が浮かんだ。
もう後戻りが出来ない。病院の地下室でカルテ整理をしながら北村は時期を待っていた。
 
 「北村さんここの整理も、もう終わりにしたら」婦長中島睦子が北村の机の前に立って、五十過ぎと思えぬ声で言った。
「一人で気楽くにのんびりと、ここも悪くないよ」とナースサンダルに書かれた文字を見ながら北村が言った。
「貴方は青葉医大一の脳波技師、大渡部長に左遷されたからといっても、仕事は仕事」中島睦子は現場第一主義である。
北村は青葉医大に初めて勤務した六年前の四月青葉台駅から環状四号線を桜台に向かった日の事を思い出していた。

 今の自分は何なのくだろう。脳波技師資格を得るため努力した事は無駄だったのか。
北村は青葉医大に籍がある内は、中島睦子の為にも、大渡大作の為にも、それ以上に患者の為に尽くそうと思った。
これが脳波技師の責務だ。
北村はここ数ヶ月の行動を省みた。
「北村さん大渡部長はね、皆が貴方の事を陰で言っているのを知り、貴方の傷を癒すためこの仕事に付かせたのよ」と言い部屋から出て行った。
北村は何も言えなかった。ただ言える事は自分を理解してくれた人がいる事を、自分を変貌から救ってくれられた人がいる事を。

 「山岸ミツエさん」脳波室のドアから北村譲二の穏やかな声がした。
「案内に書いていたけれど髪にクリーム等は付けていませんね」
「はい」
「三十分位かかります」と言いながら頭に電極を吸い付かせた。
「目を軽く閉じてください」
「これから灯りをチラチラさせます」
「眠らないようにして下さい」と北村がレコーダを見ながら山岸ミツエの気使いながら検査を開始した。
レコーダが左右に触れるのを見ながら、此れほど自分に合っている職業を捨てようとしている事に対しての不安が蘇えった。

 山岸ミツエの検査時間は二十五分、予定通り終了した。
「先生どうでした」山岸ミツエは診察台を下りながら北村に聞いた。
「結果がでるのが三日後です。何か心配事でもあったのですか」北村はさり気なく答えた。
山岸ミツエは何も答えなかった。
「山岸さん、結果は三日後ですが私の見たところでは正常です。一担当として結果を言う事は禁止されていますので他言無用」と心配そうに見つめる山岸ミツエに言った。
「ありがとう、ありがとうございます」と言いながら、山岸ミツエは二度北村に頭を下げた。
部屋を出て行く山岸ミツエの顔が少し赤身が嘗て見えた。
北村は椅子の肘掛に肘を乗せ左顎を支えながら暫く沈黙した後廊下に出た。
北村は「身体を右に曲げながら、疲れたー」と一言言って左側奥の非常階段の扉を開けた。
肌寒い風が頬を通り抜けた。フゥーと息を吐いた。フゥーと息を吸った。
何て気持ちがいいのだろう。
遠くに目をやると丹沢連邦の峰々が白くなっていた。
北村は丹沢の塔ノ岳に登った時のことを思い出した。小田急線渋沢駅から大倉までバス、水無川をチェーン頼りに登った事を、そして頂上で飲んだ一杯の水の美味かった事を。
非常階段に腰掛けながら四年前の事を思い出しながら、あった、この手があった。
北村譲二は白衣の右ポケットから手帳を取り出し書き始めた。
西空は雲に覆われていたが北村を覆うものは何も無かった。



Posted by zinzin at 08:46│Comments(0)
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。