2006年05月08日

華散りぬ(偽装の章)

偽装の章

 初夏の風が憂鬱さを吹き飛ばし、青空に広がる絹雲が効天候を予感させてくれる。
北村は右腕を後ろに軽く回しながら自宅に向かっていた。
生い茂る街路樹で信号機が見えにくい。それよりも空間が狭められ自分に覆い被さる。
しかし後戻りが出来ない事も当然知っている北村には何も怖いものは無い。
今は肌を通り過ぎる風さえ後押ししてくれる気がする。

 北村の住んでいる榎木ヶ丘は、通りから離れているので人通りは少ない。
夜更けともなれば暗黙に包まれた妖気がひしひしと押し寄せてくるかのように静まり返るのです。
その中で着々と準備を進めている事を知るのは真田依子ただ一人だけである。
北村の部屋の押入れに七月二十一日からMJIと書かれた紙袋が一つ保管されている。誰のものかいまさら書く必要も無い。
足の踏み場を探すのが困難だった六畳の居間も今は畳の縁迄見る事が出来る。何時もこのような部屋なら貸主もさぞ喜んだ事だろう。

 北村の愛車ローバービッグは部屋前の駐車場に何時も置いてある。横に植えられている柿の木から飛んでくる花で、ワイパー、ボンネットが覆いられるのがこの季節だ。
部屋の窓を開けると甘い香りが初夏の風と共に吹き抜ける。これが晩秋には実に群がる鳥が落とす糞と柿の実で愛車が悲鳴をあげる。
北村は流れる雲のように、次から次と過ぎし日を思い出していた。
北村の部屋は日が経ちにつれ綺麗になって、と言うか不要物が処分され残りは紙袋四個とリュックサック二個だけである。
リュックサックの上にはオレンジ色した薄手のレインウエアが置いてあった。
玄関にはトレッキングブーツが二足並べられていた。

 八月三日早朝、ローバービッグのエンジンが回転と同時にマフラーから青白い煙が一度噴出した。
北村の隣にはボブヘァーの真田依子がサングラスをかけて何やら話し掛けていた。内容を把握する事は不可能。
それでは困る
読者諸君、想像力を働かせなさい。「作者の陰謀だ」

 北村運転のローバービッグは青葉台から成瀬、町田経由して16号線で橋本方面に向かって走行。
土曜日であるが時間が早いので通常の倍くらいの速さで走行可能だが北村は決して無理をしない。
制限速度50キロを60キロ走行しても時間に余裕がある事は知っている。
車は八王子インターから中央高速道に入り名古屋方面に向かった。
ローバービッグは時速120キロで走行を続けた。
「小休止だ」と一言言って談合坂SAに入った。観光バスはいなかったが、大型トッラクが六台と乗用車が数台停車していた。
真田依子が時計を見ながら「六時に出たのだから、一時間五十分ってとこね」と北村を見ながら言った。
「予定通りだ」とさり気なく答えた。
八月と思えないほど清清しい朝風が山間を通り抜けていく。
北村は指を組みながら両腕を頭上にかかげ背伸びをした。
眠気が一気に吹き飛んだ。
「サァ行くぜ」と言いながらローバービッグに乗り込んだ。
土曜日であるが渋滞はない。お盆の帰省時には現在通っている笹子トンネル付近は何時も渋滞と放映されるところだ。

 養蜂箱に群がる蜜蜂のように山間の平地に家々が重なりあって見える。
北村にはいつか小高い丘から見た漁師町の風景と同じように、人間の姿を見る事は出来なかった。
「北村さん今どの辺を走っているの」依子は少し甘えるような声で聞いた。
「韮山を過ぎたあたりかな、小淵沢を越えると長野県だよ。又休憩しようか」北村の覚えてきた記憶は途切れようとしていた。
「真田さんエリアガイドを見て、談合坂SAで貰ったのがあるから」と言ってダッシュボードを指差した。
エリアガイドを見ながら「もうすぐ長野に入るわ、休憩無しでもう少し行こう」とサングラスを右手で押さえながら依子が行った。
「真田さん、次の岡谷JCから長野自動車道入るからね」北村は少し額に汗を滲ませながら前を見たまま行った。高速道路での行き先間違いは、大変な事になる事は一度経験しているので慎重にならざるを得ないのであった。

 長野自動車道松本JCを降り147号線にて白馬村に向かった。山間の道は八月と言うのに涼しい風が車内を通り過ぎる。
北村には風が運んでくる蝉の鳴き声も、風の匂いも、そして時として現れる集落と段々畑が目に入ると、遠い故郷にいる母の面影が思い出された。
一時間が過ぎると立山黒部アルペンルートの玄関口大町市に差し掛かった。
ガイドには、通称塩の道で知られる千石街道の博物館や山岳博物館が点在と書かれていたが、濃紺のローバービッグは、148号線を白馬村に向かった。
糸魚川までどの位有るのだろう。だが二人の目的地、白馬村迄の距離も把握していない。

 車窓からの風景はJR大糸線と平行しているので代わり映えしないが山々が大きくなったように感じられる。
北村が長距離運転に挑戦したのは二年振り、緊張から眠気はないが体の重さで下半身に負担が掛かるのかペダルの操作が遅くなった事を実感できる。
「道の駅白馬、右よ」と普段聴いたこともない大きな声で依子が言った。
神城駅手前ここから5~6キロで白馬村に到着予定だが十一時半過ぎると食がほしくなる。二人は「道の駅白馬」に隣接の郷土料理店で小休兼ねて昼食と決めた。
店の中は思ったより広く太い柱が安心感を与えてくれる。
二人は名物の郷土料理定食を注文した。客は十四人いたが皆トレッキングブーツ履いているので目的は似たようなものだ。
本来ならビールを飲むのだが我慢する事にした。依子は運転しないのだから飲んでも構わないのだが注文しようとしない。
「ビールでも飲んだら」北村が一言言ったが依子は何も答えなかった。
山郷の郷土料理は似ているものだ。川魚、山菜等は必ず出てくる、土地で取れたそばの香りがなんともいえない。
先人の知恵をいまだに受け継いで石臼で粉を挽くなんて意気だ。これからも守り続けてほしいと北村が思うのもわかる気がする。
途中歴史民族資料館で時間を調整し、ホテルN白馬についたのは三時を少し過ぎた頃であった。
時間が早かった事もあり、駐車場には車六台と送迎用のマイクロバスが一台停車しているだけだった。

 フロントには五十歳過ぎの男と三十歳くらいの男が立っていた。
「予約している北村と言うものです」
「北村様ですね。確かに承っています。704号室になります。」
「五日の予約も入っていますね」
「承知しております」
二人はリュックサックを抱えながらえ右隅のエレベーターを利用して704号室に向かった。
部屋に入るなり「疲れたー」と言って北村はベッドに腰をおろした。
依子は冷蔵庫から缶ビールを持ってきて北村に渡した。
北村は黙って栓を抜いた。続いて依子も抜いた。グォンと缶の触れ合う音が響いた。
口の中の温もりが一気に吸込まれた。
これがビールの一番美味しい飲み方と言っても嘘にはならない。
北村の隣に腰をおろした依子が「疲れたでしょう。腰を指しってあげるから横になって」と囁いた。
確かに北村は長距離運転で疲れていた。いや精神的疲労かも知れない。
しかし予定していた時間前に到着出来ると北村は想像もしていなかった。
「私なら大丈夫、それより真田さんのほうが疲れているのでは、小さい車だから」北村は依子の横顔を見ながら話し掛けた。
「食事まで横になろうか」と言って北村の腰掛けているベッドに依子は横になった。
北村も依子の隣に横になった。

 場内放送が流れた。
夕食の準備が出来ましたので、二階栂池ホールにお越しください。放送は二度繰り返された。
時計は六時を指していた。二人は二時間熟睡した事になる。
「如何する」二人は顔を見合わせた。
「明日は朝食抜きで八方尾根に向かうのだから、食べて置かないと」北村が依子に言った。
最近の食事はバイキングが主流だ。このほうが好きなものを好きなだけ食べられるから好評なのである。又ホテル側にとっても食べ残しが少なくて都合が良いとの事だ。
二人は和洋食とエビチリ食べ最後にそばを口にした。
「郷土料理のお店で食べたおそばのほうが美味しいわ」依子が首を少し右に傾けながら言った。
「きっと機械で粉を挽いたのだろう、そば粉は熱で味が変わるのだ」北村は石臼を思い出しながら答えた。
「部屋に帰りビールでも飲もうか」と言いながら席を立った。依子も後に続いた。
山々に囲まれているからか窓から見える風景は心なしか寂しく感じられる。北村は故郷の山並みと白馬の山々が重なり寂寥に包まれた。
「アァーすっきりした。北村さんもシャワー浴びたら」頬を少し紅色に染め、目を細めた依子が北村に言った。
「そうするか」と言いながら浴室に向かった。

 風呂上りに冷たいビール、皆この美味しさが忘れられないので口にするのかもしれない。
グラスに注がれたビールを片手に乾杯と言いながら一気に飲み干した。
間髪をいれず依子が北村のグラスに注いだ。
九時を過ぎた頃には空き缶が七個、長旅の疲れも重なって眠気が差してきた。
二人はそのままベッドに横になった。
北村の腕が依子の左腕の下から優しく包み込んでいた。そして枕元の明かりが消えた。
「何時ものように優しくしてね」甘える声で依子が誘いかけた。
「この後を知りたい、読者諸君の想像力を高める為にも作者はあえて生々しい事を書くのを取りやめる事にした。決して意地悪をしているのでは無い」

 朝六時半二人オレンジ色のレインウエア手にもってフロントにいた。
「これから八方尾根向かうが五日に又お世話になります。車を置いて行ってもいいですか」北村は五十歳過ぎの担当に言った。
「いいですけど、出来れば車を移動も有りますので鍵をお預かりしたいけど」
「わかりました」と言いながら鍵を渡した。
「八方池山荘は予約無しで泊まれますかね」北村が尋ねた。
「大丈夫です」長年ここで働いているので解るのだろうと北村は思った。

 八方尾根ゴンドラリフトにて兎平迄一気に行きそこからはアルペンリフト、ロマンスリフトを乗り継ぎ第一ケルン、ここから第三ケルン迄は軽装の人達で賑わう。
真田さんリュックサックの背負い方で初心者がわかるのですよ。
リュックと身体とのフィット感を調節するアジャスターの使い方、初心者はさほど気にする人が少ないが長時間になると疲れ方にグゥーンと差が出るのですよ。
北村は覚えたばかりのウンチクを得意げに話した。
第一ケルンの所に差し掛かった時、北村が記念写真を撮っているグループに「すみません、シャター押してもらえませんか」と話し掛けた。
リーダーらしき男が「いいですよ」と言いながらカメラを受け取った。
白馬三山を背に腰にレインウエア巻いた北村と依子は軽く手を繋ぎながら微笑んだ。
「有難うございました」北村は丁重にお礼を言った。
男は「どちら迄行かれるのですか」と北村に聞いた。
「八方尾根自然路を散策して、八方池山荘に一泊の予定です」北村はこれから向う方向を指しながら答えた。
気をつけてと言いながら男はグループの中に消えた。

白馬観光協会の電話が鳴ったのは六日の朝九時であった。
「こちらホテルN白馬ですが昨日宿泊予定のお客さんが八方から帰ってこないのです。
念のために四日宿泊予定の八方池山荘に問い合わせて見たのですが、それらしき人は宿泊していないとの事でした。」
「急用が出来て帰った事が考えられないですか」
「それは無いと思います。私どものほうで車の鍵をお預かりしていますので」
「わかりました。これから伺います。」
十分もすると白馬観光協会と朱書きされた4WDのワゴンが到着した。
三人の関係者が「車の確認させてください」とホテルN白馬の担当に伝えた。
「あの濃紺のローバービッグです」と指を指した。
車の中にはMJIと書かれた紙袋が一つとスリッパが二足置いて有るだけだった。
紙袋の中には袋菓子が二袋、一つは封が開いていた。
ホテル左脇に止められたローバービッグは長旅を癒しているのかミラーだけが日に答えていた。



Posted by zinzin at 11:14│Comments(0)
 
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