2006年05月15日

故郷奇談

故郷奇談
十和田湖は、秋田と青森の県境にあり、青葉から落葉までの間は、曜日を問わず観光に訪れる人で賑わっている。
青森から奥羽山脈の北に位置する八甲田連峰を通り、「住まば日の本、遊わば十和田、歩けや奥入瀬、三里半」と、大町桂月に歌われた奥入瀬渓流を眺め、十和田湖に向かうのが一般的である。
 しかし、私の思い出の場所は、八甲田連峰東側に位置する田代平高原である。
学生時代の事なので記憶も定かでないが、今伝えなければ二度と機会がないと思い、書き残す事にした。
充実した学生生活と言えばチョコット歯痒いが、人生を語ろうと言うキザな奴の口車に乗せられて、高校三年の夏にキャンプしたのが、田代平高原である。
田代平は、以前十和田湖に向かう途中、休憩で立ち寄った事があり、その時は、秋も過ぎ去ろうとしていた小春日和の日であったが、さすが山の季節の移り変わりは、早いものだと感じさせられた。
 湿地帯の枯れ木に群生する茸を手にとり、ひら茸(食)月夜茸(毒)...図鑑で見た記憶をたどっている時、高原をうす霞が包むと、枯れ木の先端が桂林の巻き絵を思わせる描写変貌に身を震わせた事を、今でも忘れられない。
時間にして数分位いの事だと思うが、記憶は時として蘇るものだから定かでない。
分かっている事は、霞が晴れて八甲田大岳を見上げたとき白く化粧していた事だけだ。
 あれから二年と9ヶ月も過ぎたとは早いものだ。4人が、田代平キャンプ場に着いたのは、午後一時を過ぎた頃であった。
黒石市からバスに乗る9時には、八つの甲に見える連峰が、アルプスを思わせるように雲間に優美な頂を覗かせて私達を迎え入れようかに思えた。
 バンガロー13棟が、ファイャー広場を囲む形で建てられている。 我らが世話になるバンガローは、少し離れた北東側の奥に位置していた。
バンガロー左横側に直径60㎝位の緑葉で覆われている楓の中から、13号の表札を見るには、風で枝が浮いた時でなければ読みとる事が出来ない。
3時を少し過ぎた時、暗雲と共に降りだした雨が、5時を過ぎてもやむ気配を見せない処か、意に反して雨粒が大きくなった見たい出ある。
トタン屋根に響く雨音が鼓笛のリズムを奏でる中で、時々落下する滴の塊が、旋律に聞こえる。
4人は、疲れも重なり食事の支度を考える事も忘れて唯ぼんやりと個々に時を過ごしているだけだった。
 現在では、カップに入った麺にお湯をいれるだけで、すぐ食べられる便利な物も多く発売されているが、あの頃は、ドンブリに麺を入れ熱湯を注ぐ即席麺しかなく、その中で商品名、チキン.エースコックが懐かしく思われる。
流行の即席麺をキャンプに持って来ると言う気のきいた奴は誰もいない事は、平常からの付き合いで分かっている。
あるのは、飯盒.皿.米.瓶に入った海苔.缶詰め(中身の記憶全く無し)味噌汁の材料さえ無いのだ。
 山の天気は、変わりやすいとは良く言ったものだ。この日も同じで、重傷患者の心電図を覗いているような、波形の繰り返すのように降ったり止んだり、終わりは、.....「想像に任せよう。」
要領のいい奴は、グループに必ず一人は居て貴重な存在感を保っている。 当然自分には、このような能力が有る訳はないが、一度だけ、僻んだ事を記憶している。2年の期末試験の3時間目の事であったが、もう過去の事なので、良しとしよう。
 角燈2個が天井に吊るしてあり、その下で食事をするには何ら問題はない。
ましてこんな天候では、停電の心配がないのが魅力的だ。 奥羽山脈を境にして青森県は、南部地方と津軽地方に分けられいて、我ら4人は、津軽出身なので現在居る場所の他は無知同然である。田代平は、一度来た事が有るから知っているが、他で知っていると言えば、八戸と三沢市だけである。
 屋根をたたく雨なら何度も経験しているが、台風でもないのに横殴りの雨は、めったに経験する事はない。角燈の灯火は、周りをガラスに覆われているので消える心配はないが、片方の角燈の上側が煤で黒くなっているのは、少しでも明るくする為に芯を長くしたからかもしれない。
ラヂオが、午前2時の時報を告げる頃には、雨足も弱く感じられるようになり、明日の行動計画を練る声にも張りが出てきた。
 引き戸から染み込んだ雨も乾き始めた頃には、4人とも体を横にして動く部分と言ったら足首から先だけで、目の輝きも薄れてきた時、トントンいやコツコツと言った方があっている音が左の窓から聞こえた。
窓の外には、楓の緑葉が揺れているだけで、人の気配は全く感じられない。 当たり前である。こんな夜中に訪ねてくる人がいる訳がない。
他は、知らぬ人ばかりなのだから。  三泊の予定を一日で帰る事に決断させたのは、朝食の準備を担当していた尾上の話を聞いた後だった。
13号棟左横側にある楓の根元に小さな石、小さいと言っても直径20㎝はあったと思う。それだけなら別に気に留めないのだが、石の脇に枯れたゆうすげの花が、昨日の雨で石にひばり着いていた事だった。
 津軽地方でも葬式の儀式は色々あると思うが、安原の話では、お棺に納められた故人の周りに、半紙に包んだお茶、半紙に書いたお金、「三途の渡り賃」、緒の切断された草履「この世に戻れない意味」、それに白い菊の花と硬貨を入れると言う。
火葬の時、硬貨は殆んどが溶けるが、黄銅の五円硬貨は溶けにくく爛れて残る事が多く、その五円硬貨を持ち歩くと、魔除になると言って安原はいつもサイフに入れて持っている。魔除けと言えば、お棺の上に金糸に包まれた短刀も一緒に置く事も覚えていた方がいい。
 津軽は、東西南北に中津軽の5地区に分けられているが、どの地区も穀物を生産している。言い替えれば穏やかな平野が広がっていると言うことである。
津軽の中心弘前は、津軽十万石の城下町で今でも鉄砲、鍛冶、代官、と至る処に昔の町名が残っている。
津軽十万石と言っても、唯の外様でない。城の堀にしても表向きは二重でも、裏に回れば三重堀になっている。
津軽十万石と言われているが、西の護り神、岩木山の裏には、広大な平野がある事を極秘にしていたと言う。
津軽の人全て秘密主義でない事をつけ加えて置かなければ、先人に申し訳が立たない。
 弘前と青森の間に、奥羽本線と五能線が交わる川部駅があり、その川部に仲間の一人が住んでいる。
親父は、JR浪岡駅「当時は国鉄」の助役で、家族割引で安く旅行できる事を自慢していた。「この記憶は、定かでない」
貨物列車の通る音は荒ましく、慣れない人は、大地震が発生しても気が付かない位だが、
慣れとは恐ろしいものだ。 彼は平気なのだ。順応性抜群なのか鈍感なのか本人の顔から想像するのは無理だ。
 彼の部屋は、庭の南東にブロックの上に載せてあるプレハブで、四方をワイャーで固定されているだけだ。
当然履物は入り口に置いてある林檎箱を横にした中に入れておくのが習わしだ。
家族に知られず気軽に集まれるのが、都合の良い場所である。 進学を希望している彼に開放的部屋を与えた父の信頼は、生徒会副会長を二期努めた事にあると言える。
 四人が顔を会わせたのは、9月終わりの金曜日の午後9時30分を過ぎた頃で、両親になんと伝えてきたかこの際考えない事にする。
朝から台風15号の影響で、降ったり止んだりを繰り返していた雨に加えて、風も激しくなり11時過ぎには、部屋が丸ごと飛ばされると思えるほど揺れが激しい。
その揺れは、自分が通学に使用していた私鉄電車と同じ位いの揺れ、いや其れ以上である。
 裸電灯の明かりが一瞬消えかかった時、午前2時の時報をラヂオが告げた。
その時線路側に面した曇りガラス窓の外から、トントンいやコツコツと言う音が聞こえた。4人が顔を見合わせると同時に、一瞬の旋律が体を走り抜けた時、左奥にいた一人が、布団を頭から被り大きな声で、
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏  時間は場所に操られる訳だから、鮮明さに欠けるが、記憶にある事は、4人が布団を被り体を寄せ合っていた事だけで、暴風雨の事は、全く気にならなかった事だ。
 嵐の後の静けさと違い、慣れない地震で目覚めたが、額を左手の指先で軽くこすった時、偶然潰したブヨが吸ってた血が、中指の第一間接の先に黒くへばりついたのを見たとき、胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
目が覚めているのは自分だけなのに、照れ隠しのつもりで、右足の踵で床をトントンと叩いたと同時に3人が跳び起きた。
瞼が腫れ上がり目が赤く充血して、血色が無かったが、一人の頭髪に白っぽい綿ゴミが付着していたのが目に写った。



Posted by zinzin at 11:18│Comments(0)
 
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